モグラ談

40代のリベラルアーツ

【本】プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

書籍情報

【概要】

機会がありこの夏に読了。経済史の書籍を通じ、概略は理解していたが、やはり学術書の原典は違う。岩波文庫の大塚訳より、日経BPの中山訳のほうがわかりやすい。500ページを超える大著だが、脚注が多く、本文量はそれほどでもない。論旨は斬新だが主張を多面的に繰り返しながら論述されるためわかりやすい。

著者のマックス・ウェーバー(1864-1920)は、デュルケームジンメルと並び称される19世紀の偉大な社会学者。父親は政治家、母親は敬虔なプロテスタント。本人も政治的、活動家的志向があったとされる。30歳半ばで父親との不仲などにより神経症を発症。大学を辞すが、その後に本著を含む高い業績を残す。肺炎で急死。享年56歳。(参考:Wikipedia他)

著者は、ドイツにおいて「経済的に成功を収めた人、教養のある人にプロテスタントが多いのはなぜか。経済的に発達した地方がプロテスタンティズムという宗教改革を受容しやすい素質を備えているのはなぜか」と問い、カトリック信徒とは異なる原理から生まれる、神の恩寵を受けるための行為(神の召命としての職業(天職:ベルーフ)の成就)が経済的成功に駆り立てるという。ちなみに、当初、原題は「北アメリカにおける「教会」と教派(ゼクテ)」。これが最終的に「プロテスタンティズムの教派(ゼクテ)と資本主義の精神」に。原題は、所属教派が個人の名声を保証するものと考えられていた社会事象に着目したためとされる。

 

【ポイント】

  • 「経済的に発達した地方において、相対的に寛容な支配であったカトリック教会ではなく、それまで考えられなかったようなピューリタン的圧制が心から受け入れられたのはなぜか」を問う。高等教育在籍率、経済的な合理主義を好む営利活動の活発さなどをカトリックと比較し、プロテスタントにおける経済志向性を確認する。カトリックが禁欲的・非現世的、プロテスタントが唯物的・現世享楽的(プロテスタントはうまいものを食って暮らすことを好み、カトリックは寝て暮らすことを好む)といった俗説は、ルター、カルヴァンなどの初期の指導者理念から直接導出することはできないとし、近代資本主義とプロテスタントの親和性は、“なにがしかの純粋な宗教性がもたらしている”と仮定する。
  • 資本主義の精神とはなにか。「時は金なり、信用も金なり、金は金を生み、几帳面と正直は信用を通じた利潤につながるがゆえに推奨される」というベンジャミン・フランクリンの説諭に着目し、この発想の特徴として「何よりも資本増強を自己目的とするのが各人の義務であるという思想。金儲けはあらゆる無邪気な享楽を退けて追及するものであり、有能さの顕れであるという思想」を見出す。
  • ところで労働者は、出来高賃金とすると、多く働き収入を増やすのではなく、出来高制以前の収入以上の働きをしない(民衆は貧しいから働くのであり、貧しい間しか働かない)。こうした資本主義以前の基本動機を乗り越えるには、「仕事が絶対的な自己目的であり、「天職(ベルーフ)(※英語ではcalling(神から与えられた使命)の観念)」であるかのように労働する心構え」が必要。ここから「正当な利潤を組織的・合理的に職業として追い求めようとする精神」を“近代資本主義の精神”と暫定定義する。
  • 世界的な資本市場、金融市場の中心地であった14-15世紀のフィレンツェにおいてさえ道徳的に“寛恕”されるに過ぎなかった利潤の追求が、いかにして「天職」とまでみなされ、個人にとっての義務と感じられるようになったのか。ベルーフという言葉が職業的意味を持ったのはルターによる翻訳以来であり、元々の聖書にはそのような意味は見出されないが、いずれにせよ聖書に示されることにより、日常の世俗的労働に宗教的意義が認められ、これがその人の「召命」であるとみなされるようになった。世俗の職業生活にこうした道徳的性格を与えたことは、ルターが後世に残した最大の業績。ただし、資本主義の拡大に宗教が与えた影響は、ルター派から直接語れないとし、他の教派を分析していく。
  • プロテスタンティズムの担い手として、メソジスト、敬虔派、カルヴァン派・再洗礼派、ピューリタニズムの4つを挙げ、これらの特色・異同を示しながら、共通・類似するものとして、資本主義の精神を拡大せしめた倫理を明らかにする。
  • カルヴィニズムのもっとも特徴的な教義である“恩寵による選びの教義(予定説)”に着目。あらゆる出来事は神が自らの栄光を高めるための手段でしかなく、人間の罪過に人間が影響することはできない。カトリックのように教会に赦されるわけではない中、人間は深い内面的孤独の中で、来世を確信できず不安に苛まれる。一方、あらゆる出来事が神の栄光を高めるものであるなら、天職もまたしかり。よって、職業で成功することは神の栄光を高めること。神が望むことができている、すなわち職業での成功は、“私は選ばれている”ことの確証である、という論理が生まれる。信徒は自分が選ばれた者だと信じることを絶対の義務とみなすこと(疑いを持つことは悪魔の誘惑)、確証を得るためには休みなく労働すること、が推奨された。そしてこの実践により、人生の態度すべてにわたって首尾一貫した方法(職業の成功への邁進)が完成された。
  • 神が要求するのは労働そのものではなく“合理的な職業生活”である。よって合理的であれば転職は否定されない。そして合理的であるか否かの基準でもっとも重要なものは利益率。ここから職業的成功と経済的成功(働いて豊かになること)が直結する(貧しくあると願うのは、病気になると願うのと同じ)。
  • 利益追求の枷が外れ、ここに消費の抑圧が加わると、余剰資本蓄積は進み、投下資本と再生産につながる。この作用は極めて強力であり、ここに資本主義との邂逅をみる。
  • 一方、20世紀前半において、この論理は理解されておらず、個人にとって職業は経済的な強制となり、営利活動は宗教的・倫理的意味を失い、純粋な競争の情熱と結びつく傾向がある、と本著の最後に言及する。

 

【雑感】

  • 「職業を召命と捉えたうえで、予定説の中で来世への不安に苛まれる個人の救済欲求が、職業の成功≒来世の確証という論理を生み、営利追及がむしろ推奨され、消費抑圧とあいまって資本の再生産につながった」という基本構造を、とくに前半の論理について、諸教派の異同を踏まえた分析、反証の否定などにより、丁寧ですきのない展開をしている。
  • 現代から見ると、ある種、奇策ともいえる論理に読めるが、人間が影響することのできない唯一絶対の存在、すでに予定された審判、そこに専門的仲介機関の教会を介さず、民衆ひとりひとりが神と対峙するというプレッシャー、そこから生まれる来世への不安、確証への枯渇、前提としての来世の存在の確信と死の恐怖・・・。これらは想像すら難しい切実なものであったろう。
  • 予定説の中で、なんとか安心を得るための論理を生み出してきた経緯を読みながら、阿弥陀仏に他力本願した浄土教を想起。同じく、江戸初期の僧侶であった鈴木正三(しょうさん)が、日常の修業が難しい一般人に対し、“世俗業務は宗教的修業であり一心不乱に行えば成仏につながる”としたことを想起。
  • 「予定説(教義)という前提のもとでの来世の確証という絶対的欲求(民の願望)と親和する近代資本主義(社会制度)」といったように本著の論理を宗教、願望、制度の関係で捉えるとなにかみえてこないか。①願望を尊重しつつ教義を社会制度に展開できるかどうかが宗教・思想の普及のポイントになるのではないか、②教義なき無宗教の時代においては、社会制度は願望による影響を大きく受けるため、易きに流れる、あるいは不安定になるのではないか、③あるいはこれを支える(教義に代わる)今日的な原理や規律を構築していく必要があるのではないか、④それは持続可能性といわれているものに近いのではないか、とか。

 

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