モグラ談

40代のリベラルアーツ

【本】民俗学への招待

書籍情報

【概要】

史書を読む中で、日本人論に興味を持ち、思えば柳田國男南方熊楠を拾い読みした程度だったので、新書の入門書を購読。民俗学の本は読み物として面白く、かつ歴史の連続性を感じさせてくれる。

著者の宮田登(1936-2000)は日本の民俗学者。横浜生まれ。元日本民俗学会会長。本書ではじめて知った。都市民俗学の一人で、推理小説の愛好家。大塚英志多重人格探偵サイコの原作者)に「君の発想はジャーナリスティックすぎて学問には向かない」として院進学を断念させたらしい。歴史家網野善彦と親交が深かったとのこと。(参考:Wikipedia

本著は、テーマに沿って“民俗”を次から次に紹介していく第一部と、柳田、南方、折口といった民俗学の先駆者を比較しながら紹介する第二部の二部構成だが、ほとんどは第一部に割かれる。純粋に読み物として面白いし、過去の慣習・信仰が現在につながっていることの発見の新鮮さがある。

 

【ポイント】

  • 19世紀のイギリスでフォークロアという語が生まれ、残存する古代の遺習の収集・比較研究が確立された。日本ではその50年後、大正前半に柳田國男が中心となり各地の民間研究者を糾合し「郷土研究」を整理。ここに南方熊楠折口信夫が参加。少し遅れて渋沢敬三渋沢栄一の孫。日銀総裁、蔵相経験者でもある民俗学者)が民具収集による物質文化を通じた日本文化研究を開始。

【以下、様々な伝承等】

  • 江戸では初夢に宝船がでると吉とするフォークロアがあった。宝船にはいずれも海の外から来た神がいる(エビスは海上を漂着、弁天・大黒・毘沙門天はインドからのヒンズー系、布袋は中国の仏僧、寿老人・福禄寿は道教の神仙)。この背景に、海からくる“神の舟”の発想。もともとは伊勢・春日・鹿島の三神と弥勒仏がのった「みろくの舟」が米俵を持ち運ぶという歌を伴った民俗芸能の存在。
  • 稲荷・山の神・エビスは民間信仰の花形。エビスが一番正体不明。神道ではイザナギイザナミから生まれた蛭子神で、葦の船で海に流され、難波に漂着し、夷三郎の名で祀られたというのが西宮エビスの発祥。商業エビスが農村で百姓エビスになり、町ではとうとう家の神となった。海からの漂着という観念から、黒潮にのってくるクジラ、サメ、イルカ、シャチなどの海獣はエビスとも呼ばれていた。
  • 明治5年12月3日を元旦とした新暦への改暦は、吉凶や生活の禁忌を迷信ととらえ、これを一括排除しようとしたもの。一カ月ずれたことで、初春が冬の最中となり梅や柳の風情はなくなり、桜は夏に咲くこととなり、中秋の名月に月が見えず、市民は混乱。
  • 旅(たび)の語源。柳田説では、道中、食べ物を「給(た)べ」といって物乞いするから。その他、イザナギが黄泉の国で櫛に火をつけたこと(手火、他火とかいて「たび」)、生家のかまどの火以外を他火(たび)といい、これを使っている外部の人としての旅人、からという説。ちなみに旅で身に付ける合羽を十里合羽といい、十里は40kmなので、これが旅の距離感。
  • 折口の“まれびと”論。“まれびと”は異界から訪れる霊的存在。神の範疇に入る存在で、旅人も“まれびと”としてもてなされた。この考えによると、日本の神は一定の土地に常在せず、求めに応じ来訪する存在。一方、常在神と来訪神がいるという説もある。
  • 世界の地震神話で地中の動物が身震いして地震が起こる説。動物は牛、大蛇、大魚。大日本国地震之図(1624)では、竜蛇が日本列島を取り囲み、鹿島(大神宮)で頭と尾が接続。一方で、大魚説もあり。大魚を大鯰としたのは松尾芭蕉という説(連句地震を起こした竜を大鯰の大群と解した)。
  • 嘘(うそ)は日本では寛容に受け止められる節。天神祭りの“うそ替えの神事”では、木製の鷽(鳥)を取り替え合い旧年中の悪しきを一切“うそ”に見なし、本年は全て吉になるとする。エイプリルフールの効力はその日一日だが、日本は1日で364日分が“うそ”にできる。
  • 厄災が多い年は、門松を立て、餅を搗(つ)き、仕事を休み、臨時の正月を迎えてしまい、新しい年にしてしまう「取越正月」「流行正月」といったものが江戸の大都市で行われた。厄年の2月1日の“年重ね”の行事も、正月のような賑やかな宴を行い、はやく1年年をとってしまおうという自己暗示の顕れ。
  • 柳田によると、日本の宗教は神道でも仏教でもない道教陰陽道をもとにした現象が甚だ多く、もしこれらが神道・仏教に習合されなかったならば、日本は(呪術的な)「巫覡歌舞(ふげきかぶ)」の国になっていたとされた。一方で、その構造の解明はなされぬまま今日に至る。
  • 日本人は比較的豊かな妖怪変化を生み出すが、化物の存在を認めたうえで、退治に精を出す傾向。言葉の力で倒す「化物問答」のフォークロアは多く、なかでも「何が一番怖い?」が多い。実は欲しいものを一番怖いものと伝え、結果、それを得る、というもの。
  • 情念の怖さで知られるのは産女であり妊婦の異常死に基づく。子を抱いた女の足が見えない幽霊画は丸山応挙以来一般化するが、これは出産時に出血多量で死亡する女性が多かった時代状況が下半身の欠損につながったと著者は推測。
  • 日常の生活用具が妖怪化する現象は日本特有。今昔物語では油甕や鍋の精が人に化ける、化物寺の妖怪の正体は古道具であることが多いなど。70年代の高度成長前後に道具供養が行われたとの報告もあり、室町以来の流れともいえる。

 

  • 柳田は様々な民間伝承を再構成して日本文化論として位置づけようとした。これら伝承は現在の日本人の意識・行動を律していると考えた。柳田は民俗学の先駆者として評価されるが、指摘として、伝承資料の制約から近世初期までしか遡れなかったこと、水田稲作農村社会を想定したためその他の人々(町人、武士、職人等)への配慮が欠けたことなどがある。
  • 柳田は日本文化は国内の文化状況として形成されているという前提にたち、その範囲で歴史の論証に取り組んだのに対し、南方は国外との比較研究から日本文化を含めたそれぞれの相対的特色を明らかにしていった。
  • 民間伝承は無意識の慣習として総括できるが、人々はその性格を確固として認識しているわけではない。民俗学は、(人々の意識・行動の)表層に発し、基層に視点をおろすことで、現在に残存し、次の流れの底流となるものの理解に努める必要がある。

 

【雑感】

  • “うそ替えの神事”や“取越正月”のような話を読むに、“愛すべきご都合意識の粋な日本人”を感じた。また、各種の語源の説明を読むに、その背景に、漢字、片仮名、平仮名の3種を持つ豊かな文字文化日本を感じた。
  • 民俗学は、現代の人々の意識・行動を律するもの、「ささら」でいうところの持ち手部分を、伝承から明らかにしていくというユニークで興味深い学問分野。本書は様々な民間伝承がとりあげられ、読み物として面白い。
  • 一方、伝承の列挙の印象が否めず、この“持ち手”の部分はなんなのか、それが今日にどう影響しているのかといった踏み込んだ記述はみられなかった。また、タイトルが示す入門書としての期待に照らせば、この学問分野の目的、体系、主要な理論と到達点、研究手法、他の学問分野との異同、今後の研究領域なども触れられていない。
  • 否定的に捉えれば、個々の伝承の整理・解釈については相当の整理がなされ、伝承の発掘・蓄積のみでは学問としての限界効用は低下している印象。著者が触れているように今後の方向性の一つは都市民俗学の領域かもしれないが、システムとして世界が急速に標準化されていく今日、社会制度や社会構造の成立要因を探究する社会学との関係をどう位置づけるか。
  • そのうえで、民俗学とは、“豊かな民間伝承を対象に、想像力を働かせ当時の人々の営みを集め、束ね、意味づけ、歴史の流れに乗せて、今日の人々による自らや社会を認識する手助けをする学問”と定義してみた。
  • 民間伝承という研究史料はどんどん失われていく。この分野で必要なのは研究手法のイノベーションではないか。古文書や音声データの大量解析など?
  • “この学問はなんの役に立ちますか?”という質問に負けないでほしい。一方、“役に立てる”方法として、民俗学を各地の無形資産の発見や特色形成の武器とし、いわゆるまちおこし・むらおこしに役立てていくことのはどうか。観光産業の人材、行政職員、地域住民、研究者の連携は新しいなにかを生めるのではないか。

 

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