モグラ談

40代のリベラルアーツ

【本】新・建築入門 -思想と歴史

書籍情報

【概要】

美術史を読む中で建築史に流れて再読。

著者の隈研吾(1954-)は現代日本を代表する建築家の一人。近年、新国立競技場の設計で話題になった。根津美術館サントリー美術館、東急キャピトルタワー、京王高尾山口駅舎など馴染みのある建築物も複数。

本著は25年前に出版された、著者の建築に対する考えを思想史と建築史の解釈を通じ整理したもの。“20世紀の末にいたって、とうとう建築家は気が狂ってしまったのではないか”に始まる問題意識は、その背後に建築というひとつの制度の否定と解体のムーブメントを仮定し、これを歴史から明らかにすることを本書の目的とする。裏表紙の顔写真が若々しい。

 

【ポイント】

  • 20世紀初頭に出現した装飾を排したこれまでと異なる近代建築は、ビジュアルのわかりやすさから、脱近代(ポストモダン)を生んだが、ポストモダンは単なる商業主義の新機軸に過ぎないと批判された。この背景には、近代対反近代という問題設定自体の誤りがある。近代に着目するのではなく、建築、さらにはその背景にある“構築”という概念にたちかえって考えるべきである。
  • 「すべては建築である」(ハンス・ホライン,1968)は、①主体をとり囲む環境はすべて建築と呼びうる(フィジカルもノンフィジカルも主体にとって等価)、②環境とは主体の外部に客観的な実態として存在するわけではない(環境とは主体の感覚によって生成される主観的な存在)、と宣言し衝撃を与えた。感覚や意識をもその客観的世界の内部に存在するとするフッサール現象学の発想が背後に読めるが、1970年代以降、ITやドラッグの広がりによりこの発想は現実味を増し、これに伴い、旧来の建築(客観としてのフィジカルな環境としての建築)という概念の危機は加速度的に進行。
  • デリダ形而上学批判は、構築物はいかに精緻に組み立てられようと現実とは異質になる、という意味において建築における構築への批判と同義であり、この批判的な空気が20世紀末の建築に深い傷を負わせた(これは構築の範囲を拡張したホラインの発想をも否定する)。そう考えると、デリダが構築的なもののモデルとした建築の本質を掘り下げることにより、“構築とはなにか”について、ヒントが得られるのではないか(本書の狙い)。
  • 建築とはなにか。“すべてが建築”となる以前の建築は“物質的な構築”であった。物質が取り除かれた後に残るのは“構築”のみ。構築とは“形への意志”。したがって主体が伴う。よって建築とは、“主体によって(意志を持って)空間的(=主体と客体の関係が生じる場)に構築されるもの”。
  • 最初の構築物は平地に建てられた巨石(ストーンヘンジ等)。ここに垂直という建築的概念が生まれ、建築を縛ってきた。ウィトルウィウス以来、西洋の建築書の最大の関心事が柱であったことはその証左(ドリス、イオニア、コリント、複合式等に分類され、固有の比例関係(直径対高さ)が定められ、これがベースに建物のすべての寸法間の比例関係を定めることが建築書の目的であった)。
  • 構築は外部(自然)との対比を求め続けるが、構築により外部は喪失する。自らの拡張が挫折をもたらすことこそが構築をめぐる最大のパラドクス。これを回避する手法として比例が誕生。ギリシャ人は美を理想的な比例関係と捉え、この考えが、比例関係さえ保存されていればいかに構築を拡張しようとも美は保たれるという考えを生み出した。設計では、柱を比例の基本単位とし、円柱の下部の直径(モドゥルス)の整数倍の寸法で神殿各部を構成。比例のほかに建築にまとまりを与える装置として、台座、勾配のついたルーフ、視覚補正(基壇の中央部を高くする、隅柱を太くする等)を開発。
  • 構築はなにかしら自然を破壊する。神聖な自然の破壊を贖うために自然でカモフラージュする。柱を木とみなし柱頭部分に葉叢を模す(イオニア式の柱頭の原型は植物のまきひげ、コリント式の柱頭はアーカンサスの葉)。自然の建築表現による“構築の隠蔽”は時代が構築的であるときほど表出。18世紀のロココニュートンデカルト幾何学的構築への贖罪として、19世紀末のアール・ヌーボー産業革命という構築の代償と捉えられ、この流れは今日に続く。
  • ギリシャを源流とする古典主義建築では柱が最重要エレメント。柱とは身体の代替物(例:男性の足と身長のサイズ比(1:6)を柱の太さと高さにあてはめたドーリア式やカリアティッド(女人像柱))であると同時に、支配-被支配関係を現わす政治性の高い建築様式。欧米諸都市の公的機関が古典主義様式なのはこの影響(さらに国民国家の政治枠組みの成立期が古典主義建築全盛期と重なったことも関係)。
  • (構築を外部から眺めるギリシャまでに比べ)人々が建築物の内部から建築を感じ始め、内部と外部の分裂が生じたローマ時代では、内部と外部の統合を図る建築様式が生まれる(内からの感受を意識した三角形やアーチ、ドームの活用や光の導入)。光は内部に自動生成される闇に閉ざされた迷路を救出するものとして、ローマ以降のすべての建築様式で最重要テーマの一つに(ゴシック教会堂のステンドグラス、フランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエ等)。
  • 内部の出現、拡大、複雑化により建築は迷路化。迷路からの救出策の一つが光の導入等の主観的(直接的)方法。もう一つは平面図における構成の秩序化(客観的方法)。古典主義が19世紀まで西欧文化圏の支配的建築様式となりえたのは、基本的な平面構成をマニュアル化できたため(直交グリッド、対称を形成する軸、軸を中心とした肉づけ)。
  • ローマ解体後のキリスト教世界に対応する建築様式がゴシック。古典主義建築を基底とする西洋建築史において反古典主義的という意味でゴシックは異端。ゴシックは建築を外からオブジェとして見る客観のまなざしではなく、内側から空間として感じるまなざしを純化し、建築の物質性をはく奪する境地を目指した。
  • パノフスキーによれば、ゴシックは演繹、階層、等価という展開ロジックにおいてスコラ哲学と平行関係にあり、両者の背景にはアリストテレス哲学の主観主義がある(主観は弁証法的に普遍に到達できると考えたヘーゲルも親和的であり、ヘーゲルがゴシックを理想的建築様式としたのもうなずける)。これは比例体系をはじめとする客観的な美の基準(イデア)をもつ古典主義やプラトン哲学とは異なる。しかし主観主義の終着点である唯名論の敗北でもこの体系は崩壊する。個物を優先する唯名論を徹底することは体系的で普遍的なカソリックの否定につながることを考えると、この結論は自明であった。
  • 空間の世界では透視図法が唯名論と同じ役割を果たした。透視図法により絵画は空間を宿し、建築から独立し、格が上がると同時に建築の格を下げた(それ以前は、絵画は建築に従属するもの)。科学との異同でいえば、主観によりコペルニクスガリレオニュートンが新しい客観を獲得したのに対し、単なる手法に過ぎない透視図法で得られた建築における客観は古典主義建築にひそむ秩序の発見であり、復古主義にとどまった(そしてテクノロジーの客観性の世界に従属した)。一方で、都市化により建築は都市空間を形成する壁として、いわば“書き割り(舞台の背景画)”としての役割を期待され、建築を通じた新たな客観性、普遍性への到達に対する希望は、ルネサンス以降、建築家の間で急速に衰えていった。
  • あえて客観を否定し、主観と物質を追求し空間の可能性を実証できるのはミケランジェロのような天才に限定されたが、主観に依存し普遍的な世界に到達するという方法論は近代表現者のひとつの原型になり、これがマニエリスムの誕生と批判につながった。一方、反宗教改革の一環としてカソリックにより生み出されたバロックは、制度によって保証された普遍を目指した。バロックを要約すると“制度に奉仕する立体的な書き割り”であり、奉仕の対象を教会から絶対王政に変え、結果、絶対王政バロックの最大のクライアントとなった。
  • 18世紀末までは構築物は完全で美しいという前提のもと普遍性が追求されたが、それ以降は、美しく、崇高なものは自然という名の外部であり、構築物の普遍性はそれ自体に完結せず外部との関係において問題とされるようになった。“自然へ帰れ”というテーマは19世紀末以降の建築デザインの通奏低音として流れている。
  • 普遍性の存在自体を否定するフッサールの態度は、普遍の構築を目指す建築の否定につながった。結果、建築においては装飾を否定したモダニズム、非求心的な構成と透明性(ガラスの多用)が生まれ、ミースのユニバーサル・スペース(巨大なガラス箱の内部を可動の間仕切りで自由に分割)による建築における社会の排除に至り、社会から切断された建築は制約を失い構築の素型としての古典主義に退行した。
  • その後、構築への批判は、人間に必要なものは非物質的構築である、物質性に関わらず構築が有する自己中心的な罪悪性が問題である、さらにはその自己中心性が環境破壊の元凶である、といった方向に向けられている。

 

【雑感】

  • 構築を通じ普遍を求めた建築の歴史と限界を通史的に説明した一冊。物質性を持ち、人の五感で感受されるといった宿命を背負いながら、建築が各時代の思想を顕しながら普遍を目指した歴史や、思想の混沌が建築の混沌をもたらしている現状を理解。
  • 「(すべてを包摂する)世界など存在せず、あるのは“無数の意味の場”」とする新実在論の立場を建築様式に展開するとどうなるのか。一人一人が(世界の)意味を考え、他者と反応させ、その過程こそが生きることと認識されるようになれば、自ずと求められる建築様式が明らかになってくるか。
  • 第一歩として必要なのは建築に込められた思想と、建築から得る人間の感受のギャップを埋める手立てなのではないか。創る人、使う人、観る人が意味を話し合える共通のリテラシーが必要ではないか。美に対するリテラシーの必要性は、建築に限った話ではない、今日的なものではないか。

 

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