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【本】梅原猛の「歎異抄」入門

書籍情報

【概要】

出家とその弟子」(倉田百三)を読み、親鸞歎異抄について知るため読了。

梅原曰く、“宗教史上、卓越した書”。第一章は「『歎異抄』わが心の恋人」。新宗教までの歴史を簡単にさらったうえで、法然親鸞唯円について記述。その後、歎異抄の解説。現代語訳もある。

 

【ポイント】

  • 歎異抄親鸞(1173-1262)死後に、誤った理解・布教を嘆いた(異を歎いた)唯円が執筆したもの。長い間、本願寺の文庫に眠っていた。親の追善供養のための念仏を否定したり、信者から布施をとることを潔しとしないアナーキズムな思想が宗門否定につながりかねなかったことを理由と推測。東本願寺の僧であった清沢満之(1863-1903)が注目、称賛し一般の目に。
  • 桓武天皇の権力を背景に比叡山延暦寺を創建した最澄の仏教には、①すべての人間は仏性をもつ(善行でいつかは仏になれる)、②戒律を軽減化し内面化、の特徴がある。著者はここに日本仏教の特徴を見出す。
  • 釈迦入滅後1500年を経て訪れるといわれた末法の時代、奈良仏教は派閥争いに堕落し、律令制は武士により崩壊の危機を迎える中、新仏教の宗教家達には躊躇許されない救済手段の選択が迫られた。結果、法然が念仏、日蓮が題目、道元坐禅を見出した。
  • 浄土教飛鳥時代に日本人に受け入れられていた。日本には元々、一切の生き物は死後その霊は天に行き神になるという思想があり、“死後浄土で仏になる“という考えは日本人に容易に受け入れられた。源信恵心僧都(942-1017)は「往生要集」で極楽浄土への希求とその手段としての念仏を説き、念仏を唱えられない人々に「南無阿弥陀仏」の口称念仏を勧めた。その後、比叡山勢至菩薩の生まれ変わりとまでいわれた法然が広めた。
  • 9歳で叡山入りした親鸞は、仏教界の堕落に失望し29歳で下山。京都吉永の六角堂に籠った後、救世観音の導きにより専修念仏に踏み切り法然の門を叩く。後鳥羽院による法然流罪時にあわせて越後に流罪。愚禿(ぐとく)親鸞と改め、流罪赦免後、42歳で常陸に、62歳で京都に戻り、90歳で入滅。
  • 阿弥陀仏はもともと法蔵菩薩という人間。48の願をかけ、難行苦行し、阿弥陀仏となった(大無量寿経)。48願のうち第18願が本願。本願は、“心から極楽浄土に往生しようと思い10念(10回口称念仏を唱える)すれば五逆と誹謗正法(殺人や仏教誹謗)以外はどんな人間でも往生する。そうならなければ自分は仏にならない”というもの。法蔵菩薩阿弥陀仏になれたのはこの願いがかなった証拠であり、すなわちどんな人間も10念すれば極楽浄土に往生できる、というのが浄土教の思想根拠。
  • “善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや “(第3条):自ら善に励み、この善によって極楽往生を目指す人(善人)は、己の善に誇って阿弥陀仏にひたすらすがる心が欠けている(但し、改心して他力(阿弥陀仏の力)にすがれば極楽浄土にいける)。阿弥陀仏の本心は、どす黒い欲望を持ちながらなにをしてもこの苦悩の世界から逃れられない悪人こそを哀れむ。自分の中になんの善も見いだせない、ひたすら他力を頼む悪人こそが救済にあずかるにふさわしい。善人だから往生ではなく、悪人だから往生というパラドクスは、道徳の延長線上に宗教はないことを示す。
  • “弥陀の本願と宿業“(第13条):身に備わってない悪行は自分で作ろうと思っても決してつくられるものではない。本願にほこって罪を作ると偽善者は言うが、この罪もすべて暗い前世からの業のつくれるもの。すべての善悪を業にまかせて、ひたすら本願を頼むべきというのが他力の信仰。
  • 親鸞は、阿弥陀の本願を信じることこそが最高の善で、自力の善を一切捨ててこの最高の善を積め、という。念仏とは阿弥陀仏のはからいで行うもので、自分のはからいで行うものではない。阿弥陀仏のおかげで念仏しているのに、自分の弟子だとか、宗派、学閥というのは考え方がおかしい。
  • 無量寿経阿弥陀如来の第18願が真なら、釈迦の説法も間違ってない。釈迦の説法が間違ってないなら、善導の注釈も嘘ではない。善導の注釈が嘘でなければ、法然の言うことも間違いではない。法然の言うことが間違いでなければ、親鸞の言う言葉も決して空しくない、というのが信仰の核心。
  • 著者は、自然支配の文明の誤謬のつけが顕れつつある現代は末法の時代であり、強い信仰がなくてはいきていけない時代であり、歎異抄は日本だけでなく世界の精神の糧になるという。

 

【雑感】

  • 歎異抄の解説書は多数あるが、本書は、著者の宗教、歴史の見識に触れつつ安心、納得して読み進められる一冊。とてもわかりやすくコンパクトにまとめられている。著者の西洋思想の自然支配に対する批判的まなざしが、他力の発想の重要性を示す。
  • 誰もが仏性を持つ(仏になれる)最澄以来の仏性論と、誰もが業に縛られた悪人(さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし)という人間観が、“他力本願”を生み出したと捉えた(誰もが悪人で、その悪人が仏になれるのであれば、そこに超越的な力が存在し、それを信じることのみが浄土への道)。
  • 来世の保証に対する懇願を祈り(念仏)にとどめ、善行を促す道徳と切り離した点が特徴。道徳と結びつけば解釈が生じ、世俗の仕組みとの接続が生じ、信仰にゆらぎが生じる、ということか(免罪符を想起)。従って念仏にとどめることの納得を得ることが決定的に重要。
  • 平安時代末の末法の時代に、新仏教の指導者が救済手段を示す必要に迫られた時代空気を想像した。例えば踊念仏にある種の滑稽さや祭事的要素を見ていたが、そうではなかったのだろう。

 

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