モグラ談

40代のリベラルアーツ

【本】一千一秒物語(稲垣足穂)

開催情報

【概要・雑感】

  • 松岡正剛氏の書評でえらく推されていたので読了。
  • なんという世界。小説なのか詩なのか、ストーリーに解釈が必要なのか。そうしたものを超越して、書くということは、ここまで自由と広がりの可能性を持っているのか。孤独、静寂、暴力、唐突のメルヘン、あるいはハードボイルド。
  • 多くのSFは外部の世界を虚構する。登場人物の心情、欲望、動機、社会の規範は現代の読み手の理解の範囲にとどめられる。本著にはそれがない。なので不思議、だから気になる、だけど惹きつけられる。
  • 著者の稲垣足穂(1900-1977)は大正末から昭和後期に活躍した小説家。芥川は本著に対し、「大きな三日月に腰掛けているイナガキ君、本の御礼を云いたくてもゼンマイ仕掛の蛾でもなけりゃ君の長椅子には高くて行かれあしない」と寄せたとのこと。ここからも本著の夢幻性がうかがえる。

 

【もう1冊】

【本】日本語が亡びるとき -英語の世紀の中で

書籍情報

【概要】

以前、人から紹介され、積読していたものをふと気になり読了。

著者は、小説家。アメリカの大学で日本近代文学も教える。“12歳で渡米するもアメリカになじめず、日本文学全集を読んで過ごしたものの、20年アメリカに居続けてしまった”経歴の持ち主。ご主人は経済学者の岩井克人氏。

本著は、言葉を、流通の範囲と、知的、倫理的な高みを目指す重荷を負わされているかどうか、から普遍語、現地語、国語と区分し、“国語”としての日本語の確立における近代文学の役割を評価したうえで、普遍語としての英語が勢力を増す中、今日の国語教育に近代文学を取り入れることを提唱する。小林秀雄賞受賞作。

 

【ポイント】

  •  各国の小説家が集まるプログラムに参加した筆者は、“人はなんと様々な条件で、様々な言葉で書いているのか”と思うと同時に“急速に英語が普遍語になりつつあることの意味”を考え始める。

  • 言葉を普遍語、現地語、国語の3つに区分し展開する。

    • 普遍語:人類がその歴史において“読み書き”に用いた、その一帯を覆う偉大な文明の言葉(漢語、ギリシャ語、ラテン語)。
    • 現地語:普遍語が存在している社会で人々が巷で使う言葉で、多くの場合母語。知的や倫理的に高みを目指す重荷を負わされることはない(時に美的に高みを目指す重荷を負わされることはある)。書き言葉の有無は問わないが、普遍語の翻訳から派生的に生まれる(例:仮名文字)。
    • 国語:国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉。もともと現地語でしかなかった言葉が、普遍語の翻訳を通じ、普遍語と同じように、美的、知的、倫理的に最高のものを目指す重荷を負わされたもの。
  • ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」では、「国語は歴史的条件が重なって生まれたものでしかないが、ひとたびできれば、あたかもそれがもっとも深い自分たちの国民性=民族性の表れだと信じ込まれ、ナショナリズムの母体になり、国民文学を創り、これが母体となり国民国家や、物理的に存在するわけでもないのに、そのためなら命を投げうってもいいとまで思う、“想像の共同体”を創る」とする。すなわち、国語→ナショナリズム→国民文学→国民国家、という流れ。
  • 国民国家が最初に成立した西欧では、13世紀頃に“普遍語”(ギリシャラテン語)が、“母語”しか読めない人向けに“現地語”に翻訳され、印刷機の発明で、“現地語”が市場で流通させるために集約された“出版語”として流通。逆に現地語から普遍語への翻訳も進み、この激しい双方向の翻訳を通じ、数世紀をかけ、西欧では“現地語”が洗練され“国語”に変身していった。そこでは二重言語者(自分の話し言葉とはちがう外国語を“読める”人)による翻訳の意義が大きい。彼らが“普遍語”と“現地語”の両方を操作する過程を通じ、知的、倫理的な高みを目指すことは期待されていなかった“現地語”を、“普遍語”と同じレベルで機能する書き言葉にまで押し上げていった。
  • ダンテ(フィレンチェ方言イタリア語の新曲)、ルター(ドイツ語聖書)、トマス・モア(英語のリチャード三世の歴史)などは、“現地語”を“国語”に押し上げた優れた二重翻訳者といえる。
  • そもそも、学問とは多数に対して自分の書いた言葉が“読まれるべき言葉”であるかを問い、叡智を蓄積していくもの。学問とは“読まれるべき言葉”の連鎖であり、その本質において“普遍語”でなされる必然。西洋語を母語としない学者はこの連鎖に入るために、“外の言葉”で読むだけでなく、書くよりほかにない。
  • 18世紀後半、学問と文学は分化(それまで文学とは書かれたもの一般をさし未分化)。学問は専門化し、“人はいかに生きるべきか”といった叡智に満ちた言葉は、文学、ことに小説に求められるようになる。そうして、文学は学問を超越し、小説は文学を象徴し、規範としての国語で書かれた小説の流通は、人々の話す母語そのものを変化させた。かくして国語は必然的に“自己表出”の言葉となった。
  • 日本は、西洋で国民文学が盛んだった時代と大きく遅れることなく国民文学が盛んになったまれな非西洋国家。その下地に、①書き言葉が漢文圏における現地語であったにも関わらず日本の文字生活で成熟していた、②維新以前に印刷資本主義が存在し、日本の書き言葉が流通していた、があった。
  • 維新前後に漢字排除論があった。前島密(漢字御廃止之儀)、森有礼(日本語は貧弱で不確実な伝達手段)など。背景に、アヘン戦争敗北が象徴となった東アジアの後進性への意識、文字は象形→表意→表音(ことにローマ字アルファベット)と進化とするとした社会進化論の存在。しかし、独立国家としての存亡かかる時代状況下、西洋語という新たに登場した“普遍語”に蓄積された知識・技術をいち早く日本語に翻訳し吸収し対等な立場に立つことが緊急課題で、そのために巷で流通する日本語を駆使して翻訳することが先決事項となり、漢字排除論は実現せず。そしてこの過程で生まれた優れた二重言語者(福沢諭吉西周箕作麟祥中江兆民坪内逍遥など)の翻訳を通じ、日本語は世界性を持って考えられる言葉としての“国語”に変身していった。そしてこれにより日本近代文学が生まれた。
  • 日本に近代文学が存在することは、日本に日本語で学問できる大学が存在することと不可分。大学という巨大な翻訳者養成所は、優れた二重言語者を生み、“国語”を洗練させ、近代文学を生んだ。日本近代文学黎明期の作家に帝国大学在籍者が異様に多いことはその証左。
  • 今日、“文学の終わり”を憂える理由に、科学が進歩し“人間とは何か”という問いを文学に期待しなくなった、文化商品が多様化し相対的に魅力が落ちた、大衆消費社会では文学的価値でなく市場価値で流通量が決まる、などがあるが、本当の問題は“英語の世紀に入ったこと”。これにより、叡智を求める人は、“読まれるべき言葉”が蓄積される“英語の図書館(叡智が結集するところの抽象的意味)”のみに出入りするようになり、“国語の図書館”に通わなくなる。インターネットがこの動きを劇的に加速している。
  • 真理には、①“テキストブック(教科書)”を読めば済むもの(学問)、②“テキスト”そのものを読まねばならないもの(文学)、がある。文学の真理は、その真理を示す言葉そのものに依存し、その真理を知るためには、誰もがそのテキストそのものに戻らねばならない(真理は文体に宿る)。
  • 問題はこの先いったい何語で“テキスト”が読み書きされるか。叡智を求める人は、普遍語に惹かれ、これを読み、これで書く。多数の読者に読んでほしいために、ますます普遍語で書き、ますます国語は価値を失い、次第に国語に美的、知的、倫理的な価値を期待しなくなる、という悪循環が生じる。そのうちに、“自分たちの言葉”からは今、何を考えるべきかなどを真剣に知ろうと思わなくなる。結果、日本語で書かれた書物は残るが、国民文学ではなく“現地語文学”になり果てる。
  • 国語教育の在り方は英語教育の在り方にかかっている。英語力が切実に必要なのは国際政治の舞台だが、ここが脆弱極まりない。少数の選ばれた人を育てるべき。全国民に英語力が必要なのでは決してない。日本人がシンガポールのような国民総バイリンガル社会に理想を見い出すのは、言葉というものを“話し言葉”とみているから。“書き言葉”という観点からみれば、“あれもこれも”という選択肢は非西洋人にはありえない。
  • 日本語の亡びる運命を避けるためには、国益上必要な少数の英語力育成という選択肢を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定しきらなくてはならない。その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てるべき。日本語を母語とする私たちに“あれもこれも”の選択肢はない。普遍語のすさまじい力の前には、それを跳ね返すだけの理念を持たねばならない。
  • この先、最も必要になるのは“普遍語を読む力”。これに変わりはない。だが、学校教育ではこのとっかかりを教えればよい。その先は選択科目にするなり、学校外の教育機会に委ねればよい。
  • 日本の国語教育はまず日本近代文学の読み継がせに主眼を置くべき。その理由は、①なるべく多くの読者に読んでもらえるよう、規範性をもって市場で流通する“出版語”が確立された時期のものであり、出版語が規範性をもって流通することによってのみ、人々の話し言葉が安定するから、②西洋の衝撃を受けた日本の現実を語るため、日本語の古層を掘り返し、日本語のもつあらゆる可能性を探りながら花開いてきた、“曲折”から生まれた文学だから、③もっとも気概も才能もある人たちによって書かれたものだから、である。
  • 文学とは、たんにそこにあるモノではない。それは、読むという行為を通じてのみ、毎回、そこに新たに存在するものである。
  • その他の備忘
    • 全米で初めて創立されたアイオワ大学の創作学科は全米で一番優れた創作学科との評
    • 今地球には約6,000の言語があるが、うち8割が今世紀末までに絶滅すると予測される
    • 日本近代文学が世界に知られたきっかけは、戦中の敵情把握のため米情報局が育成した優れた日本語学習者がのちに日本文学研究者となったことによるところが大きい(ドナルド・キーン氏ほか)
    • “松坂さん、気を確かにもってください。タイプライターのための文字か、文字のためのタイプライターか”(福田恆存が国語審議会で表音文字主義者の松坂氏への問い)
    • “想像してみてください。これから百年先、二百年先、三百年先、もっとも教養がある人たちだけでなく、もっとも明晰な頭脳をもった人たち、もっとも深い精神をもった人たち、もっとも繊細な心をもった人たちが、英語でしか表現をしなくなったときのことを”(パリでの著者の講演より)

 

【雑感】

  • エッセイ調で始まり、物語調になり、3章からは歴史をひもときながら持論を形成、最後は想いに寄った語学教育論、とユニークな構成。後半は筆が止まらない感があるが、主張が明確で読んでいて気持ちが良い。「日本語を母語とする私たちに“あれもこれも”の選択肢はない。普遍語のすさまじい力の前には、それを跳ね返すだけの理念を持たねばならない」といった憂国の提唱は強烈。
  • 言葉を現地語、国語、普遍語と分類し、普遍語の翻訳が、二重言語者を介して現地語を“美的にも、知的、倫理的にも高みを目指すことが期待される国語”に昇華させたという論理は新鮮。かつ、それが西欧諸国と対等に向き合う必要に迫られた明治期に劇的になされた、という点に納得感あり。
  • グローバルヒストリーの研究者から“アカデミアでは英語が求められるものの、英訳を通じ失われる概念をどう扱うべきか”と指摘があったことを想起。言葉は、その言語が歴史を経て形成してきた概念を背負う。意味・解釈の世界が重要性を増していると思われる中、言語はその広がりを大きく規定する。その意味で、普遍語としての英語の勢いは多くの世界をなぎ倒しかねない。表意・表音を兼ね備えた豊かな日本語が、美的、知的、倫理的にも高みを目指し続ける言葉として発展する意義を発見。 

 

【もう1冊】

【美】ロンドン・ナショナル・ギャラリー展(国立西洋美術館:2020/7/10)

開催情報

【概要・雑感】

  • 現地での感動を再び、ということで鑑賞。予約制でとても落ち着いて観れた。すばらしいシステム!音声ガイドは俳優の古川雄大さん。
  • ナショナル・ギャラリーは1824年創立。ルーブルで行われていたように名作の模写機会を提供しよう、ということでロイヤルアカデミーの会員などが議会に働きかけたのがきっかけらしい。コレクションが美術愛好家からの寄贈品によるところが大きいのも特徴。有志による教育機関としての美術館創立の流れは、王室を持たないアメリカのメトロポリタンやボストン美術館につながっていく。
  • 本展は、“世界初開催、すべて日本初公開“(チラシ)。イタリアルネサンスからポスト印象派までの61点を展示。クリヴェッリ(聖エミディウスを伴う受胎告知)、フェルメール(ヴァージナルの前に座る若い女性)、レンブラント(34歳の自画像)、モネ(睡蓮の池)、ゴッホ(ひまわり)あたりが日本でも有名な作品。コンスタブルの乾草車とルーベンスがなかったのが残念だったが、大満足。常設展に立ち寄りルーベンス(眠る二人の子供)で慰め、睡蓮を見比べる。
  • イギリスの美術は、大陸の一足後ろを歩き、大陸の美術を受け入れながら成長していった。ヴァン・ダイクから広がっていった肖像画が、市民階級の台頭した18世紀にカンヴァセーション・ピースと呼ばれる団欒肖像画や、古典美術を取り入れたグランド・マナーと呼ばれる歴史画風肖像画につながっていった経緯、グランド・ツアー(貴族子弟の修学旅行。ローマ、ヴェネチアが人気)で旅の記念にと需要が高まった風景画が、コンスタブルやターナーを経て印象派につながっていく流れなど、美術史的にも興味深かった。

 

【もう1冊】

 

【映】万引き家族 (prime video:2020/07/05)

開催情報

【概要・雑感】

  • 天邪鬼につきいまごろ視聴。2018年パルムドール受賞の是枝作品。
  • 自分が、そして人がそのネイチャーとして孤独であることを見つけてしまったものは、むしろ純粋に見つめあえる。6つの軌跡が持ち寄った灯火、虚飾ない絆、許さない無常。あるいは、規範や役割から自由であるという絆の本質、知らぬ間に侵食されている世界への警鐘。

【もう1冊】

【本】なぜヒトは学ぶのか

書籍情報

【概要】

「教育とは、学ぶとはどういうことかについて、これまでと異なる生物学的な視点から書く」との冒頭の一文に興味をひかれ読了。

著者は、教育心理学、行動遺伝学を専門とする。

本著は、“自分自身の人生を歩み始めているはずの生物学的年齢に達しながらいまだそれを行っていない高校生、大学生”向けに、学ぶことの意味を、科学的根拠に基づき書かれた啓蒙の書。随所にわかりやすい例示やメッセージがちりばめられるが、行動遺伝学における学習に関する研究成果や、様々な能力・心理的特質と遺伝、環境の関係分析の紹介など、保護者としても、学び続ける成人としても役に立つ一冊。

 

【ポイント】

  • ヒトが学習するのは、生物として生き延びるために、異なる遺伝的素質を持った人たち同士で知識を共有する必要があるため。競争に勝つためでも、楽しみを追求するためでもなく、他人と知識を通じてつながりあうために人は学ぶ。どんなに利己的な目的で学習しようとも、学んだことは否応なしに他者のために使われ、その使い方が社会を形成し、翻って一人ひとりの生き方を規定する。
  • 文化を形成する知識を伝えるために、“教える”ことと“学ぶ”ことがセットで様式化された。このときの特別な脳の働き、すなわち“教育脳”をヒトは持っているという仮説が生まれる。ヒトには教育をする、教育によって学ぶ能力が生来備わっている(TNCA:Teaching as a natural cognitive ability)(シュトラウス&ジヴ)。
  • 人間の能力は基本的に遺伝の影響を受ける。個人の努力でそれを変えることは難しいと科学は示す。そのため、必要なのは、“どう”学べば人よりよい成績を上げられるかではなく、“なにを”学べばあなたが生きていくのに意味があるか、ということ。学習指導要領で国が求める知識レベルは高すぎる。全員を“金”に変えることは難しい。それぞれの特性の持ち味を知り、それを活かした使い方を見つけるべき、ということに気づくべき。
  • 本書では、“教育”の定義を、動物行動学者のカロとハウザーの提唱(1992)に基づき「すでに知識や技能を持つ個体が、目の前にその知識や技能を持たない学習者がいるときに特別に行う利他的な行動によって、その学習者に学習が生じること」とする。教育は互恵的利他主義(血縁でもない他者に対する利他性)による活動。また、学習とは「それまでに持たなかった運動パターンや知識を新たにし、忘れずに持ち続け、必要なときにそれを使えるようにすること」(著者定義)。
  • 学習の種類:
    • 個体学習:他個体に依存しない学習(例:ゾウリムシの走性、頭の中での問答)。以下の洞察、共同、模倣学習も個体学習の一部。
    • 洞察学習:推理したり、考えたりして学ぶ(例:チンパンジーがバナナをとるために棒を使う)
    • 共同学習:一個体でできないことを結果的に共同で成し遂げる(例:ライオンの群れによる狩り)
    • 観察学習、模倣学習:見て真似ることで学ぶ。結果模倣(エミュレーション)と意図模倣(イミテーション)があり、意図を理解し、やり方、手順、プロセスを真似る意図模倣ができるのは実は人間だけ(チンパンジーは結果模倣)。
  • ヒトは否が応でも、自分にしか解けない問題を解くために個体学習に取り組まねばならない。物事への関心の向け方や発揮する能力には個人差があり、大きな遺伝的差異がある。これが一人ひとり異なる個体学習を特徴づける重要な要因。
  • ヒトはあらゆる霊長類の中で著しく子供期と老年期が長いが、老年期の長さは、遺伝子伝達という使命を果たした後でもなお、知識と知恵を伝える役割を果たすことを生物学的な使命として授けられたため。
  • ヒトの脳は、生後数年間で急速に拡大し6歳くらいで成人脳の約9割に達し12歳くらいまでに残り1割を完成させ、その後、身体が急速に成長。身体より脳の成長を優先させ栄養を回す戦略をヒトは採用。
  • 学力の個人差の一番の要因は遺伝的な差。行動遺伝学研究では一貫した結果。教師の指導方法や本人の学習で変えられる影響は大きくとも2割、遺伝が5割、家庭環境が3割(8割は本人ではどうすることもできない)。遺伝的影響が大きいという事実を過小評価し、環境と努力がすべてであるような学習観は看過できない。この世界やその成り立ちを、その人の遺伝的素質に沿った形で理解し、深く知ろうとすることは決定的に重要。
    • 双生児法(一卵性双生児と二卵性双生児の比較から遺伝の影響を分析)によると、知能、学業成績、パーソナリティ(神経質、外向性、勤勉性、新規性追求、協調性等々)、精神病理、物質依存、反社会行動等、どの側面でも一卵性が二卵性より類似しており遺伝の影響がある。
    • 遺伝以外の環境は、育った家庭(共有環境)と同じ家庭でも一人ひとりで異なる個人的な環境(非共有環境)があるが、学業成績と物質依存では前者が、パーソナリティや精神病理、経済関連や15歳以上の反社会的行動では後者の影響が大きい。
    • 遺伝的特性が能動的に環境を作り上げるように遺伝と環境は相互に影響する。ただし、遺伝から独立した共有環境は2つあり、一つは親の社会経済的地位(経済力と職業威信)。なので経済的不平等を放置してはいけない。もう一つはとカオス(いつも騒がしい、生活習慣が乱れている等々)。ちなみに学業成績の遺伝率35-45%、共有環境の影響30-45%で、この共有環境のうち5%がカオスで説明できる。なので整理整頓は大切。
    • 遺伝が出やすい環境、出にくい環境はある。望ましい素質(遺伝)がある人には自由な環境を与え、素質のない人には手厚い教育的な手助けが有効。
    • 学業成績の遺伝要因の説明変数を分析すると、遺伝的に知能が高く、自信があり、前向き勤勉で、学校環境を学習環境としてポジティブに捉え、不注意や多動・攻撃的、情緒不安定などの問題性が少ない人、が学業成績のよい人。
    • 能力共通の遺伝要因と個別能力に効く遺伝要因がある。前者は遺伝、後者は非共有環境の影響が大きい。
    • ただし、そもそも才能はきわめて多様で複雑な身体的、心理的機能の独特な特質が合わさり、長年の学習やこれを支える社会的条件により徐々に形成されるものなので、特定の遺伝子の有限の組合せだけでは当然予測できない。
    • 学習環境に対する一人ひとりの適応性は、様々なところで遺伝的差異を反映し、向き不向きには必然性がある。その人に応じた“よりよい学習環境”の探究が重要。
  • 行動遺伝学は「人間は遺伝的に一人ひとり異なる(一人ひとりすべて独自の、誰とも異なる遺伝的存在である)」という世界観に基づく。この科学的事実を受け止めることが、遺伝による多様性が、人間が作り出す価値観や制度によって格差や差別を生み出してはいけないという発想につながる。これが「人間はいかなる遺伝的差異があろうと平等でなければならない」という価値観を支える。
  • その他:
    • 私たちの生活が、自分の知らない人たちの駆使する自分の知らない知識によって作られたものによって、そのほとんどを支えられねばならなくなったのは西欧社会では産業革命と資本主義の勃興のあたり、日本では明治維新以降のこと。
    • あなたが何者かは、あなたがどんな知識を持ち、その知識をどのように使っているのかということに等しい。

 

【雑感】

  • “一人ひとりが遺伝的差異のある独自の存在“であることを出発点に、格差や差別を解消していくという考え方に強く共感。
  • 遺伝子研究が進み、精神疾患との関係から心理学への適用は見受けられていたが、具体的な教育方法、学習環境の整備への応用に距離を感じていたところ、この谷を埋める研究の可能性を感じさせる一冊。
  • 遺伝による一人ひとりの差異をきちんと見つめ、“どう”学べば人よりよい成績を上げられるかではなく、“なにを”学べばあなたが生きていくのに意味があるか、に目的をシフトさせていくことが必要だろう。これを考えることこそがキャリア教育にほかならない。
  • 一人ひとりの遺伝的差異に基づいた学習環境の整備は、今後、実装されていくのではないか。目下のアダプティブラーニングは誤答状況から苦手を克服する設問提示に留まるが、学習環境の最適化(どのような機会にどのような手段でどのような方法で学習するのが当人に適しているか)が追求されていくとよい。
  • 遺伝から独立した共有環境として親の社会経済的地位があり、これは対処可能なので(放置されるべきではないので)、その格差は社会的に救済されないといけない、という自然科学研究に基づく社会制度の設計のロジックに、今後の政策形成プロセスの可能性を感じた。
  • 紹介された要因分析は、テストの回答結果やアンケートに基づくものと思われるが、今後は塩基レベルのDNAデータや、センサー等を用いた実際の行動データなどのビックデータ活用により研究は進展できそうだ。“教育脳”の解明と、実証、実装の流れに期待。

 

【もう1冊】

  • Learn Better(アーリック・ボーザー,月谷真紀訳,2018,英治出版)⇨教育研究者の著者が実証研究調査と研究者、実践家への多数の取材を通して明らかにする学びの方法。価値を見いだす、目標を決める、能力を伸ばす、発展させる、関係づける、再考する、から構成。“今の教育は、医学の世界でいえばヒルに吸わせて瀉血しているような時代ですよ”(取材先談)とのこと。
  • 心と脳-認知科学入門(安西祐一郎,2011,岩波新書)⇨脳科学の研究成果の商用化が加速する今日。そのベースとなる認知科学の概観を歴史に沿って俯瞰できる一冊。
  • 資質・能力(理論編)国立教育政策研究所編,2016,東洋館出版社)⇨新学習指導要領を支える資質能力研究の報告書を一般向けに整理。主体的・対話的な学びや、探究的な学習の意図が理解できる。
  • 思春期学長谷川寿一監修,2015,東京大学出版会)⇨10~20歳頃を思春期と捉え、その心・からだ・脳の発達とその背景を、40名を超える研究者が分担執筆。発現される学力やパーソナリティ、影響を与える遺伝や環境の間をつなぐメカニズムの理解も大切。
  • シャイニング(1980,アメリカ)⇨双子の映画といえば、これかスターウォーズ。キングとキューブリックは仲が悪かったらしい。最近、40年後を描いた「ドクター・スリープ」がユアン・マクレガー主演で発表された。

【本】睡眠の科学 改訂新版 なぜ眠るのか なぜ目覚めるのか

書籍情報

【概要】

ブルーバックスのバックナンバーを眺めていて購入。

著者は、1998年に覚醒を制御する神経ペプチドオレキシン」を発見した研究者。

2017年時点で確実と思われる知見で最先端の睡眠科学、睡眠と覚醒のメカニズムをわかりやすく説明。覚醒、レム睡眠、ノンレム睡眠の違いがしっかりわかる。日常の素朴な疑問に答える章もある。

 

【ポイント】

  • 脳は睡眠中に洗浄される。脳では、血流に加え、脳脊髄液(細胞間隙を満たす液体)の流れが老廃物の処理を行うが、この処理のほとんどがノンレム睡眠中に行われる。アルツハイマー病の原因とされるアミロイドβタンパク質は覚醒時に脳内に蓄積し、睡眠時に洗い流されて少なくなる。
  • 動物を対象とした断眠実験によると、完全に睡眠をとらない状態が続くと、疲労状態からくる感染症やそれに伴う多臓器不全で死亡する。
  • レム睡眠とノンレム睡眠は常態が全く異なる。人は眠るとまずノンレム睡眠に入り、ニューロンの活動が低下し同期して発火するようになる(スリープモード)。60-90分ほどすると脳は活動を高め、ニューロンの発火は固有になり(レム睡眠)、覚醒時と同等かそれ以上に強く活動するが、感覚系や運動系が遮断されているため身体は眠った状態にある(オフラインで活動の状態)。
  • そもそも睡眠とは、①外部の刺激に対する反応性が低下した状態で容易に回復する(≠昏睡)、②感覚系で外部の刺激に対する反応性が低下し、運動系で目的をもった行動がなくなる、③睡眠時はその動物種特有の姿勢をとることが多い(渡り鳥は飛んだまま眠る→半球睡眠)。約75%がノンレム、25%がレム睡眠
  • いわゆる夢らしい夢はレム睡眠時に見ているとされる(浅いノンレム睡眠でも見る)。レム睡眠中は脳機能のメンテナンスのために脳が活動する必要があり、そのときに生じるノイズが夢。
  • 睡眠中には記憶が保持されるだけでなく、強化される。研究は手続き記憶(運動や演奏や各種操作など技能的記憶)が多いが、エピソード記憶意味記憶の強化に関わってると推測され、また記憶だけでなく認知力向上にも資する(学習中と同じ匂いをノンレム睡眠中に嗅がせると学習効率が向上するとする研究結果)。深いノンレム睡眠が記憶強化に重要な働きをするという考えが主流。ニューロンの同期的な発火がニューロン自体の維持や細胞間のつながり再構築に関連すると推測。
  • 覚醒か睡眠かは、視床下部視索前野の睡眠中枢にある睡眠ニューロン(GABA作動性ニューロン)と、覚醒を導き出す脳幹のモノアミン/コリン作動性システムが相互に抑制し合った結果により生じる(前者が後者を抑制すれば睡眠、後者が前者を抑制すれば覚醒)。ここに覚醒ニューロンを刺激するオレキシン作動性ニューロン(後述)を加えた三位一体でメカニズムは理解できる。
  • 睡眠を誘発する物質の本命はアデノシン。神経伝達物質分泌時に放出されたアデノシン三リン酸が分解されてできる。アデノシンは覚醒時に濃度があがり、睡眠で減少する。
  • 視床下部の摂食中枢に働く神経ペプチド神経伝達物質として働く生理活性ペプチド)のオレキシンを発見。実験の過程で、オレキシン欠損マウスの睡眠覚醒パターンがナルコレプシー睡眠障害疾患)と同様の症状を示すこと、オレキシンの欠乏がナルコレプシーを引き起こすこと、オレキシンが覚醒を司るモノアミン作動性ニューロンを後押し、安定化させることを発見。
  • 通常は睡眠システムが有利な状況にあるが、オレキシンが覚醒制御システムを刺激し覚醒状態を発動・維持させている。偏桃体が感覚系からの入力(短期的には恐怖や喜びなどの情動、慢性的には不安)に基づき覚醒の必要性を判断するとオレキシン作動性ニューロンを刺激し興奮させ、覚醒レベルを維持する、というメカニズム。
  • 空腹だと眠れないのは、血液中のグルコース濃度が低下するとオレキシン作動性ニューロンの発火頻度が増えるため。草食動物の睡眠時間が短いのは、十分な栄養を摂取するために長時間覚醒して食事にあてる必要があるため(と肉食獣に捕食される可能性を減らすため)。
  • オレキシンの働きを抑制するオレキシン受容体拮抗薬(スボレキサント)が不眠症治療薬として日本で発売。それまでの治療薬の95%はGABAの働きを高めるもの。
  • 眠る理由に対する著者の仮説:
  • 日常生活に役立つ知識:
    • 脳の温度が下がることで睡眠開始。なので直前に熱い風呂に入らないほうが良い。睡眠前に一時的に手足の温度があがるのは血管拡張により熱拡散しているため。
    • 体内時計のある視交叉上核は毎朝光でリセットされるのでカーテンは少し開けておくとよい。
    • カフェインで眠気を解消したいときはホットがよい。アイスは消火器粘膜の血管が冷たさで収縮し吸収が遅れるため(カフェインが眠気覚ましになるのは、睡眠物質アデノシンの拮抗薬として働くため)。
  • 眠りにまつわる幾つかの箴言
    • 快い眠りこそは、自然が人間に与えてくれる、やさしい、なつかしい滋養者だ(シェイクスピア
    • 神は現世のける心配事のつぐないとして希望と睡眠とを与え給うた(ヴォルテール
    • 夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです(村上春樹

 

【雑感】

  • 睡眠システムが有利な状態が常態で、そこにオレキシンの刺激で覚醒システムが作動(睡眠、覚醒のシーソーバランスをオレキシンが覚醒よりに動かす)というモデルはとてもわかりやすい。
  • 睡眠の理由やメカニズムなどあまり考えたことがなかったが、多くの時間をあてる活動であり、日本人成人の2割が慢性不眠など実は身近な問題。睡眠を研究することは覚醒を研究することでもある。DNA解析、脳波解析、ブレインテックなどの進展で今後注目を浴びてくと予想。
  • 明らかになれば人為が及ぼされるのが常。睡眠時間がフロンティアとして開拓されるのは望ましいことか否か。

 

【もう1冊】

【本】梅原猛の「歎異抄」入門

書籍情報

【概要】

出家とその弟子」(倉田百三)を読み、親鸞歎異抄について知るため読了。

梅原曰く、“宗教史上、卓越した書”。第一章は「『歎異抄』わが心の恋人」。新宗教までの歴史を簡単にさらったうえで、法然親鸞唯円について記述。その後、歎異抄の解説。現代語訳もある。

 

【ポイント】

  • 歎異抄親鸞(1173-1262)死後に、誤った理解・布教を嘆いた(異を歎いた)唯円が執筆したもの。長い間、本願寺の文庫に眠っていた。親の追善供養のための念仏を否定したり、信者から布施をとることを潔しとしないアナーキズムな思想が宗門否定につながりかねなかったことを理由と推測。東本願寺の僧であった清沢満之(1863-1903)が注目、称賛し一般の目に。
  • 桓武天皇の権力を背景に比叡山延暦寺を創建した最澄の仏教には、①すべての人間は仏性をもつ(善行でいつかは仏になれる)、②戒律を軽減化し内面化、の特徴がある。著者はここに日本仏教の特徴を見出す。
  • 釈迦入滅後1500年を経て訪れるといわれた末法の時代、奈良仏教は派閥争いに堕落し、律令制は武士により崩壊の危機を迎える中、新仏教の宗教家達には躊躇許されない救済手段の選択が迫られた。結果、法然が念仏、日蓮が題目、道元坐禅を見出した。
  • 浄土教飛鳥時代に日本人に受け入れられていた。日本には元々、一切の生き物は死後その霊は天に行き神になるという思想があり、“死後浄土で仏になる“という考えは日本人に容易に受け入れられた。源信恵心僧都(942-1017)は「往生要集」で極楽浄土への希求とその手段としての念仏を説き、念仏を唱えられない人々に「南無阿弥陀仏」の口称念仏を勧めた。その後、比叡山勢至菩薩の生まれ変わりとまでいわれた法然が広めた。
  • 9歳で叡山入りした親鸞は、仏教界の堕落に失望し29歳で下山。京都吉永の六角堂に籠った後、救世観音の導きにより専修念仏に踏み切り法然の門を叩く。後鳥羽院による法然流罪時にあわせて越後に流罪。愚禿(ぐとく)親鸞と改め、流罪赦免後、42歳で常陸に、62歳で京都に戻り、90歳で入滅。
  • 阿弥陀仏はもともと法蔵菩薩という人間。48の願をかけ、難行苦行し、阿弥陀仏となった(大無量寿経)。48願のうち第18願が本願。本願は、“心から極楽浄土に往生しようと思い10念(10回口称念仏を唱える)すれば五逆と誹謗正法(殺人や仏教誹謗)以外はどんな人間でも往生する。そうならなければ自分は仏にならない”というもの。法蔵菩薩阿弥陀仏になれたのはこの願いがかなった証拠であり、すなわちどんな人間も10念すれば極楽浄土に往生できる、というのが浄土教の思想根拠。
  • “善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや “(第3条):自ら善に励み、この善によって極楽往生を目指す人(善人)は、己の善に誇って阿弥陀仏にひたすらすがる心が欠けている(但し、改心して他力(阿弥陀仏の力)にすがれば極楽浄土にいける)。阿弥陀仏の本心は、どす黒い欲望を持ちながらなにをしてもこの苦悩の世界から逃れられない悪人こそを哀れむ。自分の中になんの善も見いだせない、ひたすら他力を頼む悪人こそが救済にあずかるにふさわしい。善人だから往生ではなく、悪人だから往生というパラドクスは、道徳の延長線上に宗教はないことを示す。
  • “弥陀の本願と宿業“(第13条):身に備わってない悪行は自分で作ろうと思っても決してつくられるものではない。本願にほこって罪を作ると偽善者は言うが、この罪もすべて暗い前世からの業のつくれるもの。すべての善悪を業にまかせて、ひたすら本願を頼むべきというのが他力の信仰。
  • 親鸞は、阿弥陀の本願を信じることこそが最高の善で、自力の善を一切捨ててこの最高の善を積め、という。念仏とは阿弥陀仏のはからいで行うもので、自分のはからいで行うものではない。阿弥陀仏のおかげで念仏しているのに、自分の弟子だとか、宗派、学閥というのは考え方がおかしい。
  • 無量寿経阿弥陀如来の第18願が真なら、釈迦の説法も間違ってない。釈迦の説法が間違ってないなら、善導の注釈も嘘ではない。善導の注釈が嘘でなければ、法然の言うことも間違いではない。法然の言うことが間違いでなければ、親鸞の言う言葉も決して空しくない、というのが信仰の核心。
  • 著者は、自然支配の文明の誤謬のつけが顕れつつある現代は末法の時代であり、強い信仰がなくてはいきていけない時代であり、歎異抄は日本だけでなく世界の精神の糧になるという。

 

【雑感】

  • 歎異抄の解説書は多数あるが、本書は、著者の宗教、歴史の見識に触れつつ安心、納得して読み進められる一冊。とてもわかりやすくコンパクトにまとめられている。著者の西洋思想の自然支配に対する批判的まなざしが、他力の発想の重要性を示す。
  • 誰もが仏性を持つ(仏になれる)最澄以来の仏性論と、誰もが業に縛られた悪人(さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし)という人間観が、“他力本願”を生み出したと捉えた(誰もが悪人で、その悪人が仏になれるのであれば、そこに超越的な力が存在し、それを信じることのみが浄土への道)。
  • 来世の保証に対する懇願を祈り(念仏)にとどめ、善行を促す道徳と切り離した点が特徴。道徳と結びつけば解釈が生じ、世俗の仕組みとの接続が生じ、信仰にゆらぎが生じる、ということか(免罪符を想起)。従って念仏にとどめることの納得を得ることが決定的に重要。
  • 平安時代末の末法の時代に、新仏教の指導者が救済手段を示す必要に迫られた時代空気を想像した。例えば踊念仏にある種の滑稽さや祭事的要素を見ていたが、そうではなかったのだろう。

 

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