モグラ談

40代のリベラルアーツ

【本】日本語が亡びるとき -英語の世紀の中で

書籍情報

【概要】

以前、人から紹介され、積読していたものをふと気になり読了。

著者は、小説家。アメリカの大学で日本近代文学も教える。“12歳で渡米するもアメリカになじめず、日本文学全集を読んで過ごしたものの、20年アメリカに居続けてしまった”経歴の持ち主。ご主人は経済学者の岩井克人氏。

本著は、言葉を、流通の範囲と、知的、倫理的な高みを目指す重荷を負わされているかどうか、から普遍語、現地語、国語と区分し、“国語”としての日本語の確立における近代文学の役割を評価したうえで、普遍語としての英語が勢力を増す中、今日の国語教育に近代文学を取り入れることを提唱する。小林秀雄賞受賞作。

 

【ポイント】

  •  各国の小説家が集まるプログラムに参加した筆者は、“人はなんと様々な条件で、様々な言葉で書いているのか”と思うと同時に“急速に英語が普遍語になりつつあることの意味”を考え始める。

  • 言葉を普遍語、現地語、国語の3つに区分し展開する。

    • 普遍語:人類がその歴史において“読み書き”に用いた、その一帯を覆う偉大な文明の言葉(漢語、ギリシャ語、ラテン語)。
    • 現地語:普遍語が存在している社会で人々が巷で使う言葉で、多くの場合母語。知的や倫理的に高みを目指す重荷を負わされることはない(時に美的に高みを目指す重荷を負わされることはある)。書き言葉の有無は問わないが、普遍語の翻訳から派生的に生まれる(例:仮名文字)。
    • 国語:国民国家の国民が自分たちの言葉だと思っている言葉。もともと現地語でしかなかった言葉が、普遍語の翻訳を通じ、普遍語と同じように、美的、知的、倫理的に最高のものを目指す重荷を負わされたもの。
  • ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」では、「国語は歴史的条件が重なって生まれたものでしかないが、ひとたびできれば、あたかもそれがもっとも深い自分たちの国民性=民族性の表れだと信じ込まれ、ナショナリズムの母体になり、国民文学を創り、これが母体となり国民国家や、物理的に存在するわけでもないのに、そのためなら命を投げうってもいいとまで思う、“想像の共同体”を創る」とする。すなわち、国語→ナショナリズム→国民文学→国民国家、という流れ。
  • 国民国家が最初に成立した西欧では、13世紀頃に“普遍語”(ギリシャラテン語)が、“母語”しか読めない人向けに“現地語”に翻訳され、印刷機の発明で、“現地語”が市場で流通させるために集約された“出版語”として流通。逆に現地語から普遍語への翻訳も進み、この激しい双方向の翻訳を通じ、数世紀をかけ、西欧では“現地語”が洗練され“国語”に変身していった。そこでは二重言語者(自分の話し言葉とはちがう外国語を“読める”人)による翻訳の意義が大きい。彼らが“普遍語”と“現地語”の両方を操作する過程を通じ、知的、倫理的な高みを目指すことは期待されていなかった“現地語”を、“普遍語”と同じレベルで機能する書き言葉にまで押し上げていった。
  • ダンテ(フィレンチェ方言イタリア語の新曲)、ルター(ドイツ語聖書)、トマス・モア(英語のリチャード三世の歴史)などは、“現地語”を“国語”に押し上げた優れた二重翻訳者といえる。
  • そもそも、学問とは多数に対して自分の書いた言葉が“読まれるべき言葉”であるかを問い、叡智を蓄積していくもの。学問とは“読まれるべき言葉”の連鎖であり、その本質において“普遍語”でなされる必然。西洋語を母語としない学者はこの連鎖に入るために、“外の言葉”で読むだけでなく、書くよりほかにない。
  • 18世紀後半、学問と文学は分化(それまで文学とは書かれたもの一般をさし未分化)。学問は専門化し、“人はいかに生きるべきか”といった叡智に満ちた言葉は、文学、ことに小説に求められるようになる。そうして、文学は学問を超越し、小説は文学を象徴し、規範としての国語で書かれた小説の流通は、人々の話す母語そのものを変化させた。かくして国語は必然的に“自己表出”の言葉となった。
  • 日本は、西洋で国民文学が盛んだった時代と大きく遅れることなく国民文学が盛んになったまれな非西洋国家。その下地に、①書き言葉が漢文圏における現地語であったにも関わらず日本の文字生活で成熟していた、②維新以前に印刷資本主義が存在し、日本の書き言葉が流通していた、があった。
  • 維新前後に漢字排除論があった。前島密(漢字御廃止之儀)、森有礼(日本語は貧弱で不確実な伝達手段)など。背景に、アヘン戦争敗北が象徴となった東アジアの後進性への意識、文字は象形→表意→表音(ことにローマ字アルファベット)と進化とするとした社会進化論の存在。しかし、独立国家としての存亡かかる時代状況下、西洋語という新たに登場した“普遍語”に蓄積された知識・技術をいち早く日本語に翻訳し吸収し対等な立場に立つことが緊急課題で、そのために巷で流通する日本語を駆使して翻訳することが先決事項となり、漢字排除論は実現せず。そしてこの過程で生まれた優れた二重言語者(福沢諭吉西周箕作麟祥中江兆民坪内逍遥など)の翻訳を通じ、日本語は世界性を持って考えられる言葉としての“国語”に変身していった。そしてこれにより日本近代文学が生まれた。
  • 日本に近代文学が存在することは、日本に日本語で学問できる大学が存在することと不可分。大学という巨大な翻訳者養成所は、優れた二重言語者を生み、“国語”を洗練させ、近代文学を生んだ。日本近代文学黎明期の作家に帝国大学在籍者が異様に多いことはその証左。
  • 今日、“文学の終わり”を憂える理由に、科学が進歩し“人間とは何か”という問いを文学に期待しなくなった、文化商品が多様化し相対的に魅力が落ちた、大衆消費社会では文学的価値でなく市場価値で流通量が決まる、などがあるが、本当の問題は“英語の世紀に入ったこと”。これにより、叡智を求める人は、“読まれるべき言葉”が蓄積される“英語の図書館(叡智が結集するところの抽象的意味)”のみに出入りするようになり、“国語の図書館”に通わなくなる。インターネットがこの動きを劇的に加速している。
  • 真理には、①“テキストブック(教科書)”を読めば済むもの(学問)、②“テキスト”そのものを読まねばならないもの(文学)、がある。文学の真理は、その真理を示す言葉そのものに依存し、その真理を知るためには、誰もがそのテキストそのものに戻らねばならない(真理は文体に宿る)。
  • 問題はこの先いったい何語で“テキスト”が読み書きされるか。叡智を求める人は、普遍語に惹かれ、これを読み、これで書く。多数の読者に読んでほしいために、ますます普遍語で書き、ますます国語は価値を失い、次第に国語に美的、知的、倫理的な価値を期待しなくなる、という悪循環が生じる。そのうちに、“自分たちの言葉”からは今、何を考えるべきかなどを真剣に知ろうと思わなくなる。結果、日本語で書かれた書物は残るが、国民文学ではなく“現地語文学”になり果てる。
  • 国語教育の在り方は英語教育の在り方にかかっている。英語力が切実に必要なのは国際政治の舞台だが、ここが脆弱極まりない。少数の選ばれた人を育てるべき。全国民に英語力が必要なのでは決してない。日本人がシンガポールのような国民総バイリンガル社会に理想を見い出すのは、言葉というものを“話し言葉”とみているから。“書き言葉”という観点からみれば、“あれもこれも”という選択肢は非西洋人にはありえない。
  • 日本語の亡びる運命を避けるためには、国益上必要な少数の英語力育成という選択肢を選び、学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を完璧に否定しきらなくてはならない。その代わりに、学校教育を通じて日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという当然の前提を打ち立てるべき。日本語を母語とする私たちに“あれもこれも”の選択肢はない。普遍語のすさまじい力の前には、それを跳ね返すだけの理念を持たねばならない。
  • この先、最も必要になるのは“普遍語を読む力”。これに変わりはない。だが、学校教育ではこのとっかかりを教えればよい。その先は選択科目にするなり、学校外の教育機会に委ねればよい。
  • 日本の国語教育はまず日本近代文学の読み継がせに主眼を置くべき。その理由は、①なるべく多くの読者に読んでもらえるよう、規範性をもって市場で流通する“出版語”が確立された時期のものであり、出版語が規範性をもって流通することによってのみ、人々の話し言葉が安定するから、②西洋の衝撃を受けた日本の現実を語るため、日本語の古層を掘り返し、日本語のもつあらゆる可能性を探りながら花開いてきた、“曲折”から生まれた文学だから、③もっとも気概も才能もある人たちによって書かれたものだから、である。
  • 文学とは、たんにそこにあるモノではない。それは、読むという行為を通じてのみ、毎回、そこに新たに存在するものである。
  • その他の備忘
    • 全米で初めて創立されたアイオワ大学の創作学科は全米で一番優れた創作学科との評
    • 今地球には約6,000の言語があるが、うち8割が今世紀末までに絶滅すると予測される
    • 日本近代文学が世界に知られたきっかけは、戦中の敵情把握のため米情報局が育成した優れた日本語学習者がのちに日本文学研究者となったことによるところが大きい(ドナルド・キーン氏ほか)
    • “松坂さん、気を確かにもってください。タイプライターのための文字か、文字のためのタイプライターか”(福田恆存が国語審議会で表音文字主義者の松坂氏への問い)
    • “想像してみてください。これから百年先、二百年先、三百年先、もっとも教養がある人たちだけでなく、もっとも明晰な頭脳をもった人たち、もっとも深い精神をもった人たち、もっとも繊細な心をもった人たちが、英語でしか表現をしなくなったときのことを”(パリでの著者の講演より)

 

【雑感】

  • エッセイ調で始まり、物語調になり、3章からは歴史をひもときながら持論を形成、最後は想いに寄った語学教育論、とユニークな構成。後半は筆が止まらない感があるが、主張が明確で読んでいて気持ちが良い。「日本語を母語とする私たちに“あれもこれも”の選択肢はない。普遍語のすさまじい力の前には、それを跳ね返すだけの理念を持たねばならない」といった憂国の提唱は強烈。
  • 言葉を現地語、国語、普遍語と分類し、普遍語の翻訳が、二重言語者を介して現地語を“美的にも、知的、倫理的にも高みを目指すことが期待される国語”に昇華させたという論理は新鮮。かつ、それが西欧諸国と対等に向き合う必要に迫られた明治期に劇的になされた、という点に納得感あり。
  • グローバルヒストリーの研究者から“アカデミアでは英語が求められるものの、英訳を通じ失われる概念をどう扱うべきか”と指摘があったことを想起。言葉は、その言語が歴史を経て形成してきた概念を背負う。意味・解釈の世界が重要性を増していると思われる中、言語はその広がりを大きく規定する。その意味で、普遍語としての英語の勢いは多くの世界をなぎ倒しかねない。表意・表音を兼ね備えた豊かな日本語が、美的、知的、倫理的にも高みを目指し続ける言葉として発展する意義を発見。 

 

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